千駄木谷中界隈を歩いてみませんか
千駄木谷中界隈散策コース
閑静な住宅街からどこか懐かしさを感じる街の賑わいまで、様々な顔を持つ本駒込から根岸の地域。江戸時代には、中山道を通じて江戸市中への入り口でもありました。明治に入ると、東京大学や東京美術学校にも近いこの地域は、森鷗外や夏目漱石を始めとした文豪や、岡倉天心や朝倉文夫などの芸術家も集う街となりました。
今回は、江戸時代の大名屋敷や寺院の雰囲気を感じる文化財のほか、明治の文化人の暮らしを垣間見ることのできる文化財めぐりコースを御紹介します。
谷中・千駄木界隈を歩こう
江戸時代、将軍の居城を中心に百万都市として発展を遂げた江戸は、大火や地震が起きると武家地や寺社の配置替を行い膨張していきました。公式な江戸の範囲は文政元年(1818)の「江戸朱引図」により町奉行・寺社奉行の管轄範囲が定まることで初めて決まりました。江戸城から見てほぼ真北に当たる本駒込・千駄木・谷中・西日暮里・根岸は、江戸市中から市外へとなっていく多様な地域的特性を有しています。
現在の駒込駅から千駄木の森鷗外の旧宅(都指定旧跡:森鷗外遺跡)までの地域は、中山道から分岐する日光御成道(本郷通り)に沿った地域が中心です。本郷三丁目交差点にある「かねやす」(江戸時代に、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」という川柳で有名になった商店)から北へ向かい、前田家上屋敷や水戸徳川家中屋敷(ともに現在の東京大学)を過ぎると、駒込の寺社地や農村地域になっていきますが、中山道沿いの武家地からつながる柳沢家下屋敷(国指定特別名勝:六義園)などの大名屋敷も点在します。このあたりは比較的平坦地で、不忍池へつながる谷戸川により浸食された谷に臨む武蔵野台地東端の台地上を歩くことになります。森鷗外の旧宅はこの台地端上に建ち、東京湾も望めたことから「観潮楼」と名付けられています。
森鷗外旧宅から団子坂を下り、谷中銀座から「夕焼けだんだん」を登ると、東京低地を望む細長い台地上に出ます。江戸時代には寛永寺や天王寺などの寺院が立ち並んだ場所で、同じ台地上の旧朝倉文夫邸(現・朝倉彫塑館)も眺望が良かったものと思われます。旧朝倉文夫邸や谷中霊園から御殿坂などの坂を下ると東京の低地部で、こちらは江戸時代には農村地帯でした。今回のコースは子規庵などの低地の史跡がゴールとなります。起伏に富んだ東京の台地部を歩いて、多様性に富んだ新しい東京の一面を感じてみてください。
散策順路・文京区
散策順路・台東区・荒川区
散策コース地図
カタログ版案内(PDF)
千駄木谷中界隈散策コース(文京区・台東区・荒川区)
六義園
六義園は、元禄15年(1702)に5代将軍徳川綱吉の側用人から老中格にまで出世した柳沢吉保が、綱吉から拝領した下屋敷に完成させた大名庭園です。多忙のためなかなか江戸城を離れられなかった吉保は作庭中の図面を届けさせ、自ら指示を出したほど熱心であったといわれています。
庭園は大泉水を中心とする回遊式築山泉水庭園として作庭されました。この形式の庭園では、中の島を有する池を中心に園路を巡り、その景色を楽しむことができます。
吉保は古典に造詣が深く、六義園の作庭にもその思想が取り入れられています。『万葉集』や『古今和歌集』の名歌に由来する景色を選び、八十八景として六義園の中に作り出しました。
例えば、八十八景の中には紀州の名勝地で多くの詩歌に詠まれた「和歌の浦」に由来する「出汐湊」や「片男波」などがあり、江戸にいながらその美景を楽しみ古典の世界に遊ぶことができるような作庭となっています。
六義園は明治維新後には、岩崎彌太郎の別邸となります。幕末の混乱で荒廃した庭には「つつじ茶屋」、熱海から移築した「熱海茶屋」などの整備がなされました。その後、昭和13年(1938)に岩崎家から東京市に寄付され都立公園として一般に公開されるようになります。
広大な庭園では四季折々の花や緑を楽しむことができます。シダレザクラは昭和30年代に植栽されたものですが、今では春の六義園を代表する景観となっています。その他にも駒込染井村とも縁の深いツツジ、アジサイ、紅葉など見どころは尽きません。
六義園の公開情報
- 公開日 :
- 通年(12月29日~ 1月1日を除く。)
- 公開時間 :
- 9:00 ~ 17:00( 入園は16:30 まで)
- 料金 :
- 一般300円・65歳以上150円
千駄木谷中界隈散策コース(文京区・台東区・荒川区)
善源寺
安井息軒墓
都指定史跡 昭和31年3月3日指定
息軒は日向(宮崎県)
その後麹町二番町に居を移し、天保10年(1839)には私塾「三計塾」を開きました。私塾の名のもととなった「三計」とは「一日の計は
明治9年(1876)、77歳で逝去。墓碑の
なお、息軒の夫人佐代は、森鷗外の小説『安井夫人』のモデルになったことでも知られています。
西村茂樹墓
都指定史跡 昭和9年5月16日標識 昭和27年4月1日史跡指定 昭和30年3月28日旧跡指定 昭和39年4月28日種別変更
明治になると啓蒙活動に加わり、
一方で、伝統的な日本道徳の高揚に努め、『日本道徳論』などを著すとともに、東京修身学社(日本弘道会)を設立しました。晩年は宮中顧問官、貴族院議員などを務めています。
明治35年8月18日、75歳で死去。墓碑には「西村
善源寺の公開情報
- 公開日 :
- 通年
- 公開時間 :
- 9:00 ~ 17:00
- 料金 :
- なし
千駄木谷中界隈散策コース(文京区・台東区・荒川区)
旧安田楠雄邸庭園
本郷台地の端部、この地に藤田好三郎(実業家、「豊島園」の創始者)が木造2階建の住宅を構えたのは大正8年(1919)。その後、関東大震災で被災した安田善四郎(保善銀行取締役、初代安田善次郎の娘婿)が大正12年に購入し、昭和12年(1937)、安田善四郎の長男楠雄が相続しました。平成7年(1995)に安田楠雄が逝去すると、建物の大半と敷地は公益財団法人日本ナショナルトラストに寄贈され、公開・活用が図られています。
東西に細長く、本郷台地の崖線に直交する敷地には、玄関から応接間(東棟)、残月の間など客間(中央棟)、台所を始めとする生活空間(西棟)が雁行式に配置されています。また、中央棟の二階にある客間は、本邸で最も格式が高い書院造りになっています。
庭園は、表門と玄関の間にある前庭、サンルームや残月の間に面した主庭、残月の間に北面する中庭、そして敷地裏手、仏間と西側住居棟(平成9年に解体)に囲まれた坪庭、の四つで構成されます。
このうち主庭は、敷地西南隅を最も高くして滝石組を置き、枯流れを配する枯山水で、サンルームや残月の間、茶の間から鑑賞する座観式庭園です。かつて芝生が敷き詰められた主庭には、各部屋から飛石を渡って枯山水を
庭の主景となる滝石組は、そそり立つような自然石を用いた滝添石と、直線的な水落石を組み合わせています。滝口は、建物正面に相対させないよう配置しており、茶の間の猫間障子から望むことができます。滝口を西北面にすることで、枯流れを大きく見せる効果もあります。
両岸に大振りの護岸石組を配し、左右に蛇行する枯流れは、庭のほぼ中央に置かれた景石により建造物側に大きく回り込み、溜りを形成しています。残月の間から、この川溜りと景石越しに多層塔と組井桁を眺めるのが、本庭園の主景です。また、サンルームからは、川溜りが景石を中心とした池泉のように見え、藤田好三郎が植えたカシワと六角形石燈籠が左右に添えられます。鑑賞する部屋ごとに多彩な景を楽しむことができるのも、本庭園の特長です。
台地端部の地形を巧みに利用した宏壮な庭園は、大正時代から昭和初期の東京山手の高級住宅に伴うものとして、往時の姿をほぼそのまま現在に伝えています。
※ 2016年11月下旬~12月上旬の土曜日に園路開放予定。詳しくは日本ナショナルトラストにお問い合わせください。
旧安田楠雄邸庭園の公開情報
- 公開日 :
- 水曜・土曜(イベント時連続公開あり)
- 公開時間 :
- 10:30 ~ 16:00(入館は15:00 まで)
- 料金 :
- 500円
千駄木谷中界隈散策コース(文京区・台東区・荒川区)
森鷗外遺跡
ドイツから帰国後、訳詩集「於母影」(小金井喜美子らと共訳)やドイツ三部作などにより当時の文学界に新風を吹き込んだ森鷗外が、この地に転居してきたのは明治25年(1892)1月。当時、開業医であった父静男が廃業し、森鷗外と同居するために購入したもので、その後敷地を拡張し、二階を増築します。階上から浜離宮の木立の上に品川沖の白帆を眺めることができたことにちなみ、屋敷は「観潮楼」と名付けられました。
約320坪の屋敷地のほぼ中央にあった観潮楼は、居間や洋間など、各部屋が複雑に入り組んだ廊下によって結ばれていました。当時の表門は藪下通りに面しており、団子坂を上りきった通りには、裏玄関まで長い石畳が続く裏門がありました。西側の敷地境にはシイが植えられ、敷地の半分を庭が占めるなど、自然味あふれた邸宅であったことがうかがえます。
明治29年に創刊された『めさまし草』の編集をはじめ、幸田露伴や斎藤緑雨による文芸批評「三人冗語」、
森鷗外が没した大正11年(1922)以降、しばらくは家族が生活をしていましたが、その後借家となり、昭和12年(1937)には失火により母屋の大部分を焼失。昭和20年の戦災で建物全てが消失しました。藪下通り沿いの敷石一部と門柱礎石、玄関左手に植えられていた大イチョウ、そして幸田露伴、斎藤緑雨との記念撮影で、森鷗外が座した大石(通称「三人冗語の石」)が、往時の姿を今に伝えています。
昭和24年に高橋誠一郎(当時、国立博物館館長)を中心とした鷗外記念館準備委員会が発足し、文京区が敷地を購入します。翌25年には東京都教育委員会による『近代文化人の遺跡調査』を受け、「森鷗外遺跡」として史跡に標識されました。
昭和37年(1962)、文京区立鷗外記念本郷図書館が開館、平成24年(2012)には文京区立森鷗外記念館としてリニューアルオープンしました。自筆の書簡や原稿、遺品などの展示史料を通じて、森鷗外の遺業を
森鷗外記念館の公開情報
- 開館時間 :
- 10:00 ~18:00(最終入館は17:30)
- 休館日 :
- 毎月第4火曜日( 祝日の場合は開館し、翌日休館)、年末年始(12月29日~ 1月3日)、及び展示替期 間、燻蒸期間等
- 観覧料 :
- 一般:通常展300円 20名以上の団体:240円 中学生以下・障がい者手帳御提示の方と同伴者 1名まで:無料 ※特別展は内容により異なる。
コラム 森鷗外と二人の人類学者
陸軍軍医であり、翻訳家、小説家、評論家として多端な活躍をした森鷗外は晩年、帝室博物館総長兼図書頭に就任し、帝室博物館(現、東京国立博物館)への出勤や、正倉院宝物の曝涼(虫干し)に立ち会っています。
また、大正8年(1919)には帝国美術院(現、日本芸術院)の初代院長に就任するなど、歴史学者や芸術家とも盛んに交流しています。ところで、森鷗外が人類学者と親交があったことは御存知でしょうか?
一人は東京帝国大学医科大学教授の
結婚前後から翻訳や歌人として活動していた小金井喜美子は、明治22年(1889)、小金井良精の北海道アイヌ調査に同行し、その時の経験を「島めぐり」として『しがらみ草紙』に発表しました。この紀行文は、後に小金井良精の論文集『人類学研究』にも再録されています。
森鷗外は、駒込片町にあった小金井家に年賀の挨拶を欠かさなかったほか、刊行したばかりの著書を自ら届けるなど、足繁く訪れています。また、明治37年(1904)に開戦した日露戦争では、上陸した遼東半島で発掘された古墳人骨を小金井良精に寄贈するなど、研究面での協力も惜しみませんでした。
小金井良精の代表的な研究は、こうした出土人骨の計測により、日本石器時代人がアイヌであることを主張したものです。これは、東京帝国大学理科大学教授で人類学者の
面白いことに、森鷗外と坪井正五郎の接点は、観潮楼でも東京帝国大学でもなく、三越呉服店にあります。明治38年(1905)、三越呉服店の『デパートメントストア宣言』と同時に流行会が組織され、テーマを設けた意見交換や懸賞図案の審査が行われます。これは、専務取締役であった日々翁助の『学俗協同』という理念によるもので、流行会での意見を参考に商品化が行われ、三越の流行が作られていきました。森鷗外は明治43年(1910)から流行会に参加し、PR 誌『三越』に小説「流行」などを発表しています。
一方の坪井正五郎は、流行会やその後新設された児童用品研究会に参加し、ブーメランを改良した『飛んで来い』や江戸時代の玩具『ずぼんぼ』を復活させるなど、ヒット商品を次々と提案していきました。
鷗外日記には、流行会で坪井正五郎の帰朝報告(欧米漫遊談)を聞いたことなどが記されています。森鷗外と二人の人類学者の関係から、当時の知識人の旺盛な探究心が垣間見えます。
森鷗外記念館の公開情報
- 公開日 :
- 通年(毎月第4火曜・年末年始・展示替期間・燻蒸期間を除く。)
- 公開時間 :
- 10:00 ~ 18:00
- 料金 :
- なし(展覧会観覧料は有料)
千駄木谷中界隈散策コース(文京区・台東区・荒川区)
岡倉天心宅跡・旧前期日本美術院跡
岡倉天心記念公園と名付けられたこの地に、日本美術院が開院したのは明治31年(1898)10月15日。日本美術院は、岡倉天心を中心に、日本美術と各自作家の特長を織り込みながら、その発達応用を自在に得ることを目的に創設された美術研究団体です。橋本雅邦を主幹に、評議員に横山大観、
日本美術蒐集家のW. ビゲローらの寄付によって建てられた木造瓦葺二階建ての建物は、二棟が南北に向かい合っていました。北棟には事務室、工芸研究室、集会室があり、南棟は絵画研究室に充てられました。敷地内には付属工芸場が9棟建てられ、絵画、彫刻、漆工、図案、金工などの研究や製作が行われました。
明治31年(1898)10月15日の落成式に併せ、第5回日本絵画協会第1回日本美術院連合絵画共進会が開催、横山大観「屈原」などが出品されました。以降、日本美術院では美術や美術工芸の制作、展覧会の開催、機関誌『日本美術』の発行などを精力的に行います。しかし、日本美術院は次第に経営に行き詰まり、岡倉天心が明治38 年にボストン美術館中国・日本美術部部長に就任し渡米したことから解散状態となります。翌年には敷地を3000円で売却し、それを元に茨城県五浦に移転、谷中の日本美術院はここに終焉を迎えました。
現在の岡倉天心記念公園は、昭和42年(1967)、台東区により開園されました。園内には五浦の六角堂を模した記念堂が建てられ、内部に岡倉天心の胸像が安置されています。この胸像は、
日本美術院院歌にある一節、「谷中うぐいす初音の血に染む 紅梅花 堂々男子は死んでもよい」という、明治期に新たな日本美術を模索し続けた画家達の気概を今に伝えています。
コラム 谷中八軒屋
日本美術院が開院した明治30年代の谷中は、一面田圃の広がる自然豊かな郊外でした。明治31年10月、日本美術院の道路を隔てた向かいに、形も大きさも全く同じ、茅葺二階建ての風変わりな建物が8軒、突如姿を現しました。これは日本美術院の中心メンバーであった横山大観、下村観山、菱田春草、西郷
困窮を極めた生活だったようですが、横山大観が夜更けに戸を叩いたところが下村観山の自宅で、夫人に注意されたことなど、エピソードには事欠かなかったようです。
この八軒屋での喜劇的な生活もまた、茨城県五浦への移住により幕を閉じました。
岡倉天心記念公園の公開情報
- 公開日:
- 通年
- 公開時間 :
- 終日
- 料金 :
- なし
千駄木谷中界隈散策コース(文京区・台東区・荒川区)
朝倉彫塑館
旧朝倉文夫氏庭園
国指定名勝 平成20年3月28日指定
朝倉文夫は芸術を「自然と人生の象徴形」ととらえていたため、自ら設計した居宅の中でも庭と建物の一体感を大切にし、その思想が反映されています。
細長い敷地にアトリエと居住棟が建てられ、その真ん中に中庭を配しています。中庭は南北10m、東西14mの小さな空間で、中央に大型の池を配し、庭のほとんどが水面に占められています。随所に配置されている巨石は小さな中庭の中で存在感を放っています。
庭に面した建物の廊下には段差を設け、視点が上下することで様々な庭の様子を楽しめるように工夫されています。中庭であるため視点が外に逃げることがなく、ゆっくりと庭を眺めることができます。
鉄筋コンクリート造の新アトリエ棟には、屋上庭園が造られています。ビワやオリーブが植えられ、かつては中央に温室がありました。昭和初期に作られた屋上庭園は斬新なものでした。この屋上で朝倉は朝倉彫塑塾の塾生と共に野菜を育てていました。園芸と自然に親しむことで芸術に必要な感性を育てるという目的があったそうです。
台東区立朝倉彫塑館住居
国登録有形文化財(建造物) 平成13年10月12日登録
住居棟は、木造桟瓦葺の数寄屋風意匠の和風建築で、中庭を囲むコの字型平面です。中庭は水で満たされ、水面・景石・四季の花木で豊かに彩られた和風庭園となっています。
建物配置は、北側を家族の居室とし、東側玄関と西側応接室を南側渡廊下で繋ぎます。玄関は旧アトリエと、応接室はアトリエ棟にそれぞれ隣接するので、建物全体に複雑な回遊性が生まれています。
居室南側の庇は軒の出が深く、互いの視線を遮りつつも、室ごとに異なる景色を楽しめるよう工夫されています。南側は玄関と応接間を繋ぐ長い渡廊下で、歩くにつれて変化する景観を感じることができます。
台東区立朝倉彫塑館アトリエ棟
国登録有形文化財(建造物) 平成13年10月12日登録
朝倉文夫は昭和2年(1927)に「朝倉彫塑塾」を開設し、後進の育成に当たります。昭和10年竣工のアトリエ棟は、朝倉が亡くなる昭和39年まで自らの創作活動と後進指導の場でした。また昭和11年には屋上に菜園を造り、塾生の日常的な園芸実習の場として使っていました。
アトリエ棟は、鉄筋コンクリート造、建築面積304㎡、地上3階建てで、朝倉自身の設計です。曲面
を多用し外観を黒色とする力強いデザインで、特に半円形に張り出した玄関に特徴が表れています。
玄関上方から覗き込む青年像「砲丸」があるのが、屋上菜園です。菜園から降りた2階南テラスの水場は、壁面の豚の口から放水する仕掛けになっています。水場の奥の温室「蘭の間」は、現在はさまざまな姿の猫を展示する部屋として使われています。
アトリエ棟の約半分を占めるアトリエには《墓守》《大隈重信像》など朝倉の作品が展示されています。アトリエの天井高さは約8.5m、上部に自然採光用のガラス窓を設け、壁には真綿を貼ります。さらに、モーター式昇降台と地下ピット、温水暖房等、当時最新の設備を備えるなど、さまざまな工夫があります。
アトリエには休憩室・ピアノの間・温室・書斎が附属します。書斎は3方の壁を天井までの書架とし、蔵書や収集品を納めます。書斎に繋がる応接室は木造平屋の建物で、構造的には住居棟の西端です。応接室の内装は、壁と天井は数寄屋風、寄木張りの床と窓辺の半円形ソファは洋風で、和洋折衷の造りです。
また、中庭に面したピアノの間の欄間は和風意匠を取り入れ、和風から洋風へと意匠を段階的に切り替えていることが分かります。
3階座敷と北側階段廻りは住居棟と同じ数寄屋意匠で、特に朝陽の間・次の間は、砕いた瑪め瑙のうを壁材に用いるなど、朝倉の個性が感じられます。3階東面の窓からは中庭が一望でき、ここでも「庭」との一体感が感じられる、優れた空間意匠となっています。
台東区立朝倉彫塑館旧アトリエ
国登録有形文化財(建造物) 平成13年10月12日登録
敷地の東端にある、朝倉彫塑館の中で最も古い大正13年(1924)築の旧アトリエ(非公開)です。木造で、天井高さ3.9m、平面積50㎡程の規模があり、屋根頂上に「浴光」と題された裸婦像を載せます。
平成25年の修理工事の際に、床下からレール跡と地下階段が発見されました。レールは彫刻の移動用で、地下階段は、彫刻を台座に載せて見上げた時の視覚的効果を確認する装置であったと推察されます。朝倉の創意工夫の跡を残す建物です。
台東区立朝倉彫塑館東屋
国登録有形文化財(建造物) 平成13年10月12日登録
朝倉彫塑館の西側、諏訪台通りの表門を入ってすぐ左手に、アトリエ棟玄関に向き合って、木造の東屋があります。五角形平面に、待合風に腰掛を設けた数寄屋風の建物で、勾配の緩い傘状の屋根を載せた一風変わった建物です。
コラム 朝倉文夫ってどんな人?
朝倉文夫(1883-1964) は、明治から昭和にかけて活躍した彫刻家です。朝倉は明治16年(1883)に大分県大野郡上井田村(現在の豊後大野市)の渡辺家に生まれ、10歳の時に朝倉家の養子になります。19歳のときに上京し、明治40年に東京美術学校彫刻撰科を卒業しました。
卒業と同時に、朝倉は谷中にアトリエと住居を構えます。明治43年には谷中の老墓守をモデルにした《墓守》が文展の最高賞に入選するなど、多くの作品が評価されています。東京美術学校教授や文展の審査員、帝国美術院会員、日展理事などを歴任し、昭和23年(1948)には文化勲章を受章しています。
現在この地に残る新旧アトリエと住居等の建造物や庭園は、朝倉自らが計画・監督し、昭和10年に完成しました。戦争による金属供出で多くの作品は失われましたが、早稲田大学の《大隈重信像》や東京国際フォーラムにある《太田道灌像》などを今も見ることができます。
また、谷中といえば「猫」が有名ですが、朝倉も猫を愛し、多くを飼うと同時にその作品も残しています。
朝倉彫塑館の公開情報
- 公開日:
- 通年(月・木曜(祝日又は振替休日の場合は翌日)・年末年始・特別整理期間を除く。)
- 公開時間 :
- 9:30 ~ 16:30(入館は16:00まで)
- 料金 :
- 一般:500円 児童・生徒:250円(20名以上の団体はそれぞれ300円・150円)
千駄木谷中界隈散策コース(文京区・台東区・荒川区)
延命院のシイ
JR 日暮里駅北口から西へ向かうと、右手に寶珠山延命院があります。延命院は慶安元年(1648)開山の日蓮宗の寺院で、一説では、八百屋お七の母親がここで祈願をし、お七を授かったともいわれています。
山門をくぐると右手に大きなスダジイがあり、これが「延命院のシイ」です。
スダジイはブナ科に属する常緑高木で、堅果(どんぐり)は、渋みがなく食用となります。
「延命院のシイ」は樹齢が600年を超えるとも言われている老木です。高さ16m の巨樹でしたが、平成14年に南側の大枝が崩落してしまいました。それでもなお樹勢を保ち、支柱に支えられながら、南側に枝葉を大きく広げています。
なお、天保7年(1836)開版の『江戸名所図会』「
古くから、日暮里の街並みの移り変わりを見てきた樹木といえるでしょう。
延命院のシイの公開情報
- 公開日:
- 通年
- 公開時間 :
- 7:00 ~ 15:30
- 料金 :
- なし
千駄木谷中界隈散策コース(文京区・台東区・荒川区)
天王寺五重塔跡
幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとして知られる谷中の五重塔は、天台宗の寺院護国山
最初の五重塔は、寛永21年(正保元年(1644))に建立されましたが、130年ほど後の明和9年(安永元年(1772))目黒
焼失前の塔は総
「現存する方3尺(約90㎝四方)の中心礎石や四本柱礎石など総数49個の石材はすべて花崗岩です。中心礎石から
天王寺五重塔跡の公開情報
- 公開日:
- 通年
- 公開時間 :
- 終日
- 料金 :
- なし
千駄木谷中界隈散策コース(文京区・台東区・荒川区)
子規庵
子規庵は、子規が家族とともに明治27年(1894)から晩年を過ごした場所で、加賀藩前田家の下屋敷の御家人用二軒長屋でした。大学予備門以来の友人である夏目漱石を始め、多くの文人たちがここを訪れました。雑誌『ホトトギス』の発刊や、代表的な随筆集『
昭和20年(1945)の戦災で家屋は失われましたが、門人の
コラム 正岡子規について
子規は晩年結核に冒されて長く病床にあり、俳句・和歌など古風な文人の印象が強いですが、一方で大いに野球を愛した人物として知られています。当時の野球はアメリカから伝わった目新しいスポーツですが、子規は非常にこれを好み、東大予備門時代からこれに熱中したといわれています。子規が自分の本名である升(のぼる)をもじって「野球(のぼーる)」と号した逸話は有名です。俳句や短歌にも野球を多く取り上げ、新聞にルールを連載紹介したこともあったようです(『松蘿玉液』所収)。このような野球の普及への多大な貢献から、平成14年(2002)には特別表彰として野球殿堂に殿堂入りし、大きな話題となりました。かつて子規が野球を楽しんだといわれる上野公園内には、平成18年の開園130周年の折、「正岡子規記念球場」の愛称が付けられた野球場があります。
子規庵の公開情報
- 公開日:
- 通年(月曜を除く。)夏休み・冬休みあり
- 公開時間 :
- 10:30 ~ 16:00(12:00 ~ 13:00 を除く。)
- 料金 :
- 500円(中学生以下無料)
千駄木谷中界隈散策コース(文京区・台東区・荒川区)
中村不折旧宅(書道博物館)
明治・大正期に活躍した洋画家・書家
不折は江戸(東京)生まれ。長野で育ち、上京して浅井忠や小山正太郎に師事しました。4年間のフランス留学の後、太平洋画会の中心として、白馬会の
書道博物館は不折が独力で収集した、中国・日本の書に関する古美術品や考古資料を中心に、重要文化財12 点、重要美術品5 点を含む約16,000点を収蔵しています。第二次世界大戦の戦災を免れ、昭和初期の趣を残す本館は、近代洋風建築としても貴重です。平成11年(1999)に建てられた中村不折記念館では年数回の特別展・企画展が開催されるほか、館内の中村不折記念室には不折の作品や関係資料が展示されています。
当地にあった不折の居宅は戦災で失われてしまいましたが、敷地内には大正時代の蔵が残るほか、不折が明治時代に建てた石造りの土蔵が庭園内に移築、公開されています。
中村不折旧宅(書道博物館)の公開情報
- 公開日:
- 通年(月曜(祝日又は振替休日の場合は翌日)・年末年始・特別整理期間を除く。)
- 公開時間 :
- 9:30 ~ 16:30(入館は16:00 まで)
- 料金 :
- 一般:500円 児童・生徒:250円 (20名以上の団体はそれぞれ300円・150円)
文化財めぐりコース
東京都にある貴重な文化財を、
より多くの皆様に身近に感じていただくために、
文化財をめぐるコースを御紹介します。