昭島散策コース(中世の多摩を歩いてみませんか)
大日堂及び日吉神社
木造金剛力士立像
都指定有形文化財(彫刻) 昭和39年4月28日指定 昭和51年7月1日種別名変更

吽形

阿形
仁王門の左右にはヒノキ材寄木造りの金剛力士像が安置されています。向かって右側の
この像は『新編武蔵風土記稿』に「鎌倉仏師運慶の作」と記されていましたが、昭和50年から52年にかけて行われた解体修理の際に見つかった胎内の墨書銘から、鎌倉幕府の御家人で地頭職にあった谷慈孫三郎菅原重光が施主となり、正和3年(1314)に阿形像を仏師肥前房が、正和4年(1315)に吽形像を仏師備前□が制作したことが分かりました。また、「敬白浄土寺」の記載も見つかり、鎌倉時代に浄土寺という寺院が実在したことが明らかとなりました。
動的で激しい忿怒の表情を見せる鎌倉時代の金剛力士像としては比較的温和な形相で、平安時代の遺風をしのばせます。旧武蔵国に現存する仏像として貴重なものです。
拝島のフジ
都指定天然記念物 昭和31年8月21日指定

拝島のフジ
昭島市拝島町一丁目、大日堂前の平地に広がる拝島公園の一角に、広さ約300㎡を超える大きな藤棚があります。このフジが「拝島のフジ」です。
フジはマメ科のツル性落葉低木で、本州中部以西の山野に自生するほか、観賞用として広く栽培されています。
別名「千歳のフジ」とも呼ばれるこの「拝島のフジ」は、室町時代末期、この地にあった明王院の境内に自生していたとされています。寺院は江戸時代初期に廃寺となってしまいましたが、フジだけが残っています。
都内でも有数のフジの巨樹で、樹齢は800年とも言われているこの「拝島のフジ」は、かつてよりは樹勢の衰えが見られますが、それでもなお、毎年4月下旬頃になると藤色の花を咲かせます。房の長さは1mを超え見事で、市の内外からの観光客の目を楽しませています。
大日堂境域及び日吉神社境域
都指定史跡 平成4年3月30日指定
天台宗の大日堂とその守護社である日吉神社によって形成された境域は、江戸時代に八王子と日光を結んでいた日光往還沿いに位置しています。寺院と守護社によって形成される、天台宗の寺域の典型として、都内で旧態を留める数少ない場所の一つです。
境域には南側の低地部分に南面して仁王門が建ち、参道を進んだ北側の一段高い部分に、正面に大日堂、東隣に薬師堂、東南に鐘楼堂、西側に日吉神社が位置しています。

大日堂
大日堂は、密教の中心仏である大日如来を祀った建物で、現在のものは享保17年(1732)に再建されたものです。入母屋造りの五間堂で、現在は銅板葺ですが、元々は茅葺でした。江戸時代中期の仁王門と共に昭島市指定有形文化財に指定されています。薬師堂も修復が見られますが江戸時代前期、鐘楼堂は江戸後期、寛政8年(1796)の建物です。

日吉神社
日吉神社の現在の社殿は、本殿が天保15年(1844)頃、拝殿と幣殿は安政2年(1855)の建立です。入母屋造りの拝殿の後方に、幣殿を挟んで一間社流造の本殿が並びます。いずれの建物も現在は銅板葺ですが、元々は本殿は段板葺、拝殿・幣殿は
コラム 大日堂・日吉神社周辺を歩く
大日堂はかつて拝島山密厳浄土寺と号し、寺伝によると天暦6年(952)多摩川の大洪水の折に大日如来像が中洲に流れ着いたのを始まりとしています。その後、天正年間(1573-93)に滝山城(八王子市高月町・加住町・丹木町)の鬼門よけとして現在地に移され、滝山城主北条氏照の下臣石川土佐守が娘の眼病平癒のお礼として、堂宇を再建したとされます。
江戸時代には「浄土寺」の寺号は消滅し、享保17 年(1732)に大日堂を再建した際、現在と同様の伽藍配置とし、「大日八坊」の一つの普明寺が別当として護持に当たりました。日吉神社の創建は不明ですが、天正年間(1573-93)に守護社の「山王大権現」として建立されたと言われます。明治に入り神仏分離により大日堂( 別当普明寺) と日吉神社に分離されますが、天台宗の御堂と天台宗の守護社である日吉神社が一山に残ります。
多摩川に臨む段丘面(ハケ)の上段に主要堂宇(大日堂・薬師堂、日吉神社拝殿・本殿)を構え、低地部には仁王門(昭島市指定有形文化財)やおねいの井戸(昭島市指定旧跡)、拝島のフジ(都指定天然記念物)などが配されます。日吉神社の西隣には富士塚も残されており、諸堂の仏像や鎮守の杉林なども含め、貴重な寺社を探訪してください。
大日堂及び日吉神社の公開情報
- 公開日 :
- 通年
- 公開時間 :
- 終日
- 料金 :
- なし