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文化財めぐりコース

青梅散策コース(中世の多摩を歩いてみませんか)

塩船観音寺

観音寺本堂
重要文化財(建造物) 昭和21年11月29日指定 昭和38年2月13日名称変更

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観音寺本堂

 塩船観音境内の丘陵地の中程の、やや広く平らに整地された場所に本堂(観音堂)があります。

 本堂は寄棟造、茅葺、桁行・梁間とも5間(約12m四方)の比較的大きな建物です。外観は非常に簡素で、外周を板壁と板戸で囲い、床は板敷、天井も鏡天井とする閉鎖的な空間です。内部は「結界」と呼ばれる格子戸の中敷居(ちゅうじきい)で二分され、手前を外陣(げじん)、奥を内陣とする、いわゆる密教堂形式の平面を持ちます。内陣周りには来迎壁(らいごうへき)須弥壇(しゅみだん)を構え、来迎柱上部の組物は和様を基調に禅宗様が加味されたものです。このような建築形式と木鼻(きばな)絵様(えよう)の形状から、室町時代後期の建築と推察されます。

  また須弥壇上の厨子(ずし)は、大変に精緻で優れた意匠です。この厨子に安置される本尊千手観音は、永正9年(1512)に、杉本坊(塔頭十二坊の一つ)を願主に、三田氏宗とその子息・政定らを檀那(だんな)として修理されたことが、台座の銘文に記されています。


 観音寺本堂の公開情報

公開日 :
通年
公開時間 :
8:00 ~ 17:00
料金 :
100円

観音寺仁王門
重要文化財(建造物) 昭和21年11月29日指定 昭和38年2月13日名称変更

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観音寺仁王門

 塩船観音の境内入り口の、平地から丘陵地に差し掛かろうとする場所に、仁王門は建っています。

 規模は桁行6m、梁間3.6 mで、切妻造、茅葺の三間一戸八脚門とし、中央には扉を入れず上部に「大悲山」の扁額を掲げ、両脇間に仁王像を安置します。建立年代は不明で、『新編武蔵風土記稿』には寿永3年(1184)の棟札があると記されますが現存せず、天文2年(1533)に三田政定・綱定が仁王を修理した時の棟札が残ります。

 本堂と細部意匠を比べると、時代が少し下った室町時代末期の建築であると考えられます。比較的立ちが高く、組物も多用しない簡素な造りで、妻面(側面の上部)の中央柱を通し柱とするのが特徴です。

観音寺阿弥陀堂
重要文化財(建造物) 昭和21年11月29日指定 昭和38年2月13日名称変更

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観音寺阿弥陀堂

 阿弥陀堂は、塩船観音の入口、仁王門の少し奥に建っています。

 寄棟造、茅葺形銅板葺で、板張りの簡素な外観です。見かけは桁行3間、梁間4間ですが、間口1間、奥行2間の内陣の四周に1間の庇を巡らせた、いわゆる阿弥陀堂形式の堂宇です。内陣は、後ろ半分を板壁と格子戸付中敷居で囲った仏壇の構えとします。内陣柱頂部の木鼻絵様(きばなえよう)も古様ですが、本堂と比べると時代は少し下って室町時代後期の建築と推察されます。

 また、天井が内陣のみに張られていることや、外側に(えん)が巡らない不自然な納まりであることから、未完の建築であったと考えられています。中世末、永禄6年(1563)頃に三田氏が没落したことと、無関係ではないかもしれません。

 阿弥陀堂に関しては、『新編武蔵風土記稿』に慶長15年(1610)の棟札があることが記され、昭和37年修理では内陣格子戸の部材から寛永18年(1641)の墨書が発見されています。

木造金剛力士立像
都指定有形文化財(彫刻) 昭和35年4月1日指定 昭和51年7月1日種別名変更

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木造金剛力士像 吽形


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木造金剛力士像 阿形

 寺域の正式な入り口である仁王門の左右には、伽藍と仏法を守護する金剛力士像一対が安置されています。ヒノキ材寄木造りによる筋骨たくましい上半身裸形の像で、一喝するように口を開けた阿形(あぎょう)屈臂(くっぴ)した左手に独鈷杵(とっこしょ)を握り右手は五指を開いて押し下げ、口をきつく結んだ吽形(うんぎょう)は左手を拳に握り右の掌は力強く正面に向け、忿怒をあらわに斜め内側を睨みつけ山門を通る仏敵を威圧しています。

 その制作時期については『新編武蔵風土記稿』に寿永3年(1184)造立と記された棟札があったと伝えられていますが、顔貌や筋肉の表現、裙の縁や衣文線などに本堂に安置されている木造二十八部衆立像との共通点が多く、恐らく同じ鎌倉時代後期に仏師定快の工房で制作されたものと考えられます。附の天文2年(1533)の修理棟札は、鎌倉仏師円慶が修理を行ったことを伝えています。

木造二十八部衆立像
都指定有形文化財(彫刻) 昭和58年5月6日指定

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木造二十八部衆立像


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木造二十八部衆立像

 本尊千手観音の左右に安置された二十八部衆は千手観音の眷属で、千手観音とその信仰者を護る御法善神です。多くは古代インドの神々に起源を持ち、貴顕、天女、武将、鬼神、力士、獣面など様々な姿をしています。二十八部衆像が揃った現存最古の例としては京都蓮華王院三十三間堂の作例が知られ、観音寺の作例はこれに次ぐものです。

 いずれもヒノキ材割剥(わりはぎ)造で彩色若しくは漆箔が施されています。23軀が鎌倉時代の作で、像内の墨書銘より文永5年(1268)から弘安8年(1288)の20 年をかけて仏師定快の一門によって造像されたことが知られます。そのうち、象頭冠をつけた五部浄居(ごぶじょうご)天、三面六臂の阿修羅(あしゅら)王、鳥相の迦楼羅(かるら)王など7軀に定快の銘が記されています。

 室町時代の永正年間(1504-20)には三田氏宗を再興施主として、仏師弘円により5軀が補像されました。永正9年(1512)の功徳(くどく)天の修理の折、この像が建治2年(1276)に早逝した金子十郎の子息・金王丸の追善のために造像され、像内にその遺髪が仏舎利として納められていることが判明します。哀惜の意を表してこの像を再興した氏宗は「そのかみ()のまことは今もしられぬる ()ちぬかうちに()はる御仏」の和歌と詠じて銘札裏面に記しました。

塩船観音の大スギ
都指定天然記念物 昭和28年11月3日指定

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塩船観音の大スギ


 花の寺としても知られる大悲山観音寺。その本堂である観音堂へと向かう石段の左右の斜面地に、一対の大きなスギの木があります。スギやクスノキから成る観音寺の社(そう)の中でも特に大きなこの2本のスギが「塩船観音の大スギ」で、別名「塩船観音の夫婦杉」とも呼ばれています。

 樹高は左のスギが約43m、右のスギが約40 m、幹周りは左が約5.7m、右が約6.6mあります。いずれも都内でも有数のスギの巨樹であり、「高尾山の飯盛スギ」や「奥多摩の氷川三本スギ」等と共に、都指定天然記念物となっています。

 スギは国内では本州から四国・九州(屋久島まで)の主に太平洋側に見られる常緑高木です。材は建築や日用品など様々な場面で使用され、また神聖な木として神社の境内等に植えられることも多く、日本人にも馴染みの深い樹木の1つです。


コラム 塩船観音を歩こう

 観音寺は真言宗醍醐派大悲山と号し、通称、塩船観音寺として親しまれています。
 寺蔵の寛延4年(1751)の縁起によれば、大化年間(645-50)に若狭の八百比丘尼(はっぴゃくびくに)が関東に来遊し、この地に1寸8分(約5.4㎝)の千手観音を安置したことが寺の始まりとされています。八百比丘尼は人魚の肉を食べたため800歳まで生きたという伝説の尼僧で、宝徳元年(1449)、若狭から京都に現れたという記事が「臥雲日件録(がうんにっけんろく)」(相国寺の僧瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の日記)にあります。
 また、天平年間には行基(ぎょうき)(? -749)が荒廃した堂宇を再興、地形が船形に似ていることから塩船と名付けたと言います。さらに比叡山の僧安然(あんねん)が観音堂(本堂)を再興し、阿弥陀堂と薬師堂の2堂を建立したほか、塔頭(たっちゅう)十二坊を整え、鎮守の七社権現を勧進し、寺運は隆盛したと伝わります。
 塩船の丘陵には、今も本堂・阿弥陀堂・仁王門(全て重要文化財(建造物))のほか山王七社権現・薬師堂・鐘楼等が巧みに配置され、密教寺院の山地伽藍を形成しています。現在は、春のつつじまつりを始め、あじさいや萩など四季の花咲く寺として親しまれています。


観音寺仁王門  観音寺阿弥陀堂  木造金剛力士立像  木造二十八部衆立像
塩船観音の大スギの公開情報

公開日 :
通年
公開時間 :
8:00 ~ 17:00
料金 :
なし