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文化財めぐりコース

浅草散策コース

浅草神社を歩く

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「三社祭」
© 台東区教育委員会所蔵 須賀コレクション

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びんざさら巡行の様子

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白鷺の舞 大行列の様子

 浅草寺本堂の東側、石造大鳥居をくぐれば、三社祭で名高い通称「三社さま」として知られる浅草の総鎮守、浅草神社の境内です。浅草寺創設に深くかかわる檜前兄弟の網にかかった観音像を土師中知が自宅を改めた寺に(まつ)ったのが浅草寺の始まりで、その三人を祀ったのが三社権現社(現在の浅草神社)です。そのため浅草神社の紋は、投網をかたどった「三ッ網」となっています。鎌倉時代末期には船渡御(ふなとぎょ)を営んだ記述があるので、神社もその頃には創建されていたと考えられます。

 現在の浅草神社社殿は、度重なる焼失ののち、三代将軍徳川家光の寄進により慶安2年(1649)に完成したものです。浅草寺境内にあった東照宮が江戸城内に遷座されたため、東照宮に祀られていた家康像も三社権現社に合祀され、浅草寺と一体に保たれてきましたが、明治の神仏分離令により独立、浅草神社と改称しました。境内には、浅草と縁の深い新門辰五郎が、安政5年(1858)に京都の伏見稲荷より勧請した被官稲荷も残されています。

 都内でも有数の祭りである三社祭は、毎年5月の17日18日に近い金曜・土曜・日曜に行われる、浅草神社の例大祭です。祭神三柱の神霊(みたま)を乗せた3基の神輿が氏子町内を渡御(とぎょ)する勇壮な祭りです。

 『浅草寺縁起』によると、正和元年(1312)の3月、「神輿をかざり奉り、船遊の祭礼をいとなみ、天下の安寧を祈り奉る」という神託があり、これが三社祭の始まりとされています。かつては観音示現の日である3月18日に行われ、丑・卯・巳・未・酉・亥の隔年に船渡御が行われました。江戸時代には、この18日にちなんだ氏子十八ヶ町が、趣向を凝らした山車の豪華さを競い合いました。

 明治に入ると船渡御も山車も無くなり、日程も5月17日18日に改められました。替わって神輿の町内渡御が行われるようになり、昭和38年からは現行の日程になりました。初日の金曜には大行列が行われ、囃子や鳶木遣の音曲に導かれ、びんざさら舞や手古舞、白鷺の舞等が見番を出発して浅草の街を歩きます。土曜は約100基の町内神輿の連合渡御、日曜は3基の本社神輿(一之宮・二之宮・三之宮)が氏子44ヶ町を渡御します。

8 浅草神社

重要文化財(建造物)
指定:昭和21年11月29日
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浅草神社拝殿外観

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浅草神社拝殿内部

 現在の浅草神社は、寛永19年(1642)に浅草寺諸堂とともに焼失したのち、慶安2年(1649)に完成しました。『浅草寺誌』によれば、神社の社殿には当時の金額で1,200両余もの巨額の建設費が当てられました。

 一般的な権現造(本殿、幣殿、拝殿が一体的になった造り)とは異なり、本殿・幣殿と拝殿の間が渡廊で繋がれています。拝殿は桁行七間の横長に広い建物で、三社祭では「びんざさら舞」の奉納が行われます。本殿は三間社流造で、檜前浜成・竹成兄弟と土師中知の三人を祀ります。

 社殿全体は、柱や縁廻りなど大部分を弁柄漆塗りとし、建具の黒漆塗りが全体を引き締めています。鮮やかなのは長押上部の小壁で、黄金のような黄土地に、鳳凰、麒麟、飛龍などの瑞祥を表す霊獣を極彩色で描いています。これらの漆塗りと彩色は、昭和38年の修理以来、経年劣化が目立ってきていたため、平成6~7年に修営を行いました。よみがえった色彩の鮮やかさには、眼を見張るものがあります。関東大震災や戦災による被害を免れ、360年以上を経た現在も当時の面影をそのままに残す、貴重な文化財です。

浅草神社の公開情報

公開日 :
通年(境内のみ)
公開時間 :
終日
料金 :
無料
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