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文化財めぐりコース

浅草散策コース

浅草寺を歩く

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浅草寺本堂

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浅草寺五重塔

 推古36年(628)の早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)竹成兄弟(たけなりきょうだい)が宮戸川(現在の隅田川)で投網をうっていた際に、一体の仏像を引き上げました。この仏像が聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)であることを知った土師中知(はじのなかとも)は、自ら出家し、屋敷を寺に改めて深く帰依しました。これが浅草寺の始まりとされています。

 中世以降、源頼朝や足利尊氏などの寄進により浅草寺領は徐々に拡大していきました。江戸時代には、徳川家康により幕府の祈願所と定められ、手厚い庇護を受けます。しかし、別当(寺務を統括した職)忠運(ちゅううん)が五代将軍綱吉の禁忌に触れて職を解かれると、以後東叡山寛永寺輪王寺門跡法親王(とうえいざんかんえいじりんのうじもんせきほっしんのう)の支配下に置かれました。

 庶民信仰の場として定着した浅草寺は、境内に水茶屋が出店し、見世物小屋が軒を連ねるなど、江戸の名所としても広く知られるようになりました。今日、浅草観光の代名詞ともなっている仲見世は、貞享2年(1685)頃、近隣住民が境内の清掃を行う代わりに、床店を出す許可が与えられたことに始まるといわれています。

 明治に入ると、雷門前には鉄道馬車が敷設され、仲見世はレンガ造りの洋風建築が立ち並び、浅草寺にも近代化の波が押し寄せました。しかし、関東大震災により近世までの街並みは失われ、東京大空襲により伝法院・二天門・浅草神社などを残し、本堂をはじめとする江戸時代以来の建物は焼失しました。

 終戦から3か月後の11月には、本堂焼け跡に仮本堂(現在の淡島堂)が建てられ、地中に疎開させていた本尊が安置されました。昭和30年代に本堂、雷門、宝蔵門(かつての仁王門)が次々と再建。昭和48年(1973)には五重塔が場所を変えながらも再建され、現在に至っています。

浅草寺境内図

1 浅草寺二天門

重要文化財(建造物) 指定:昭和21年11月29日
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浅草寺二天門

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三棟造
棟が3本あるように見えることから三棟造といわれます。

 浅草寺は長い歴史の中で何度も被災し、江戸初期の寛永年間にも2度伽藍が焼失しています。そのため、寛永13年(1636)には、寺内にあった東照宮が江戸城紅葉山に遷座されました。二天門は、その東照宮随身門と伝わり、創建は元和4年(1618)ですが、現存するものは慶安2年(1649)頃の建築と考えられます。

 明治初年、神仏分離令によって随身像は、仏教を守護する四天王のうち東方と南方の守護者である広目天・持国天の二天像が鶴岡八幡宮から奉納され、門の名も二天門と改称されました。

 二天門は木柄が太く重厚な建物で、桁行8.13m、八脚門、切妻造、本瓦葺、三棟造(みつむねづくり)という形式です。三棟造とは、門の前方間と後方間のそれぞれに三角形に組んだ屋根型の天井を設け、本来の大屋根の棟と併せて棟が3本あるように見えることから、このように呼ばれます。近世においては、旧台徳院霊廟惣門(寛永9年(1632)・港区)など徳川幕府と関連のある建物に多く見られる形式です。また、全体に赤色塗装がされていますが、柱など軸部は黒みがかった赤のベンガラ漆塗り、組物や軒廻りは明るいオレンジ色の丹塗りに塗り分けられているのが特徴です。


浅草寺の公開情報

公開日 :
通年
公開時間 :
終日
料金 :
無料
トイレマーク障害者マーク