白金高輪散策コース
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英一蝶 墓

英一蝶墓
英一蝶(本姓は藤原、諱を安雄という)は、承応元年(1652)京都に生まれ、その後江戸に下り、将軍御用絵師の
しかし、元禄11年(1698)に、罪状は諸説ありますが三宅島に流刑となります。島では、島民や江戸の顧客を相手に画を描くなどし、生計を立てていました。宝永6年(1709)、5代将軍綱吉の死去に伴う将軍代替わりの大赦で江戸に戻ると、中国の古典『荘子』の故事「胡蝶の夢」にちなみ、雅号を英一蝶と名乗り、号を
英一蝶は、元々承教寺の塔頭、
承教寺にある英一蝶墓は、安政江戸の大地震(安政2年10月2日)で破損した墓標を、六世孫の英
~英一蝶の流人生活~

絹本着色虚空蔵菩薩像
三宅島での朝湖は、三宅島阿古村に居住し雑貨商を営む傍ら、島の人々の注文を受けて「絹本着色虚空蔵菩薩像」(都指定有形文化財(絵画))などの年中行事等に用いられる宗教的な題材の絵を売ったり、「紙本著色四季日待図」(重要文化財(絵画))など江戸の人々の風俗等を回想して描いて江戸の顧客に作品を送り届けたりして、生活の糧を得ていました。しかし、生活はとても困窮していたようで、江戸の馴染み客に送った手紙には、島の風光明媚な景色に創造意欲はそそられても、絵具や紙絹などの画材が事欠いては作画もままならず、このまま島ではかなく命を落とすのかと落胆した様子を記しています。
江戸に戻り一蝶と名を改めた後は、伝統的な画題にとらわれることなく、市中のありふれた人々の日常を機知に富んだ目線で、明るくおおらかに描く風俗画家として人気を博しました。
なお、一蝶が島で制作した作品群は「島一蝶」と呼ばれて珍重され、島に残されていた作品は江戸から来た商人により洗いざらい買い取られたと言われていますが、御蔵島には「板絵着色大森彦七図額」(都指定有形文化財(絵画))、新島には「絹本着色虚空蔵菩薩像」などの作品が残されています。
英一蝶墓(承教寺)の公開情報
- 公開日 :
- 通年
- 公開時間 :
- 日出~日没
- 料金 :
- なし