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文化財めぐりコース

府中散策コース(府中・国分寺を歩いてみませんか)

府中を歩こう

 現在の都庁、県庁のような存在で、「国司」と呼ばれる地方官が派遣され、国司が政務を行う役所の中枢施設を「国庁・国衙(こくが)」といいます。この「国庁・国衙」と関連する役所群などの所在する場所が「国府」と呼ばれます。

 「府中」という市名は「国府の中」という国府の所在場所に由来します。

 国庁の造営は、各地の事例から8世紀前半の平城京遷都頃と考えられますが、国府域が生まれるのは7世紀末へ遡ると考えられます。律令国家における国の中心としての国府の役割は10世紀後半頃には衰退していきますが、府中地域は、古代から中世を通じても政治的拠点として引き継がれます。

 中世には国衙地区に大國魂神社(明治時代以降の名称)の前身である武蔵総社あるいは六所宮(ろくしょぐう)と呼ばれる社が築かれます。中世段階では六所宮の地として栄えますが、同時に多摩川を望む交通・軍事上の要地としても重要でした。府中崖線眼下の分倍河原は元弘3年(1333)の合戦場となり、崖上の高安寺には度々鎌倉公方などの陣が置かれました。

 近世では、徳川家康が江戸入府の年に豊臣秀吉の宿泊施設として「府中御殿」を築き、六所宮を手厚く保護しました。甲州街道の宿場町としても栄え、現在に至る街並みが形成されました。

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大國魂神社を歩く

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大國魂神社境内

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くらやみ祭の神輿渡御

 大國魂神社は社伝によれば、景行天皇41年(111)5月5日の創建で、武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)が代々奉仕したといわれています。奈良時代以降、武蔵国府が当地に置かれると武蔵国内諸神を(まつ)る武蔵総社とされ、小野神社(多摩市一ノ宮)・二宮神社(あきる野市二宮)・氷川神社(さいたま市大宮区高鼻町)・秩父神社(埼玉県秩父市番場町)・金鑽神社(かなさなじんじゃ)(埼玉県神川町二ノ宮)・杉山神社(横浜市緑区西八朔町)の六祭神を(まつ)る六所宮となりました。『吾妻鏡』には、源頼朝の妻・北条政子の安産祈願が行われた関東十社の一つに「武蔵六所宮」が挙げられるなど、古来より武蔵国内の崇敬を集めています。江戸時代には、幕府から社領五百石を寄進され、度々社殿が修造されました。明治4年(1871)に大國魂神社と称するようになりました。

 ゴールデンウィークに1週間行われる例大祭「くらやみ祭」は、様々な神事・附け祭のクライマックスとして5月5日の夕刻から、6張の巨大な太鼓に先導された8基の神輿が渡御します。近世以来の伝統を色濃く残した貴重な祭礼で、東京都の無形民俗文化財に指定されています。

1 大國魂神社本殿

都指定有形文化財(建造物) 指定:昭和37年3月31日
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大國魂神社本殿

 本殿には、中央の中殿に大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)等が、東殿・西殿にそれぞれ3柱ずつが祀られています。古くは、それぞれ独立した社殿が3棟建っていたようで、慶長11年(1606)の古図からもそのことが分かります。

 現存する大國魂神社本殿は、正保3年(1646)の火事により社殿等をほとんど失った後、徳川4代将軍家綱の再建の命により、寛文7年(1667)に完成したものです。三間社流造の社殿3棟分を隙間なく横に連結した九間社流造という特異かつ希少な形式で、1棟ごとに3社を合わせ祭る相殿造となっています。桁行は約14mあり、棟高も約9mと高く、玉垣で囲まれた本殿は朱漆塗りで、玉垣内に敷き詰められた白玉石に映えます。屋根はもとは檜皮葺(ひわだぶき)でしたが、幕末に銅板葺に変更されています。

 寛文7年の棟札と祈祷札も現存し、祈祷札には家綱の名も記されています。

 多摩地域における公儀普請の作例としても貴重です。


大國魂神社本殿の公開情報

公開日 :
通年(外観のみ)
公開時間 :
終日(外観のみ)
料金 :
無料
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