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写された江戸城 ―重要文化財「旧江戸城写真帖」―

東京国立博物館
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「旧江戸城写真帖」東京国立博物館蔵


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江戸城本丸跡(「旧江戸城写真帖」東京国立博物館蔵より)

 東京国立博物館に収蔵されている「旧江戸城写真帖」。これは明治初頭の江戸城の姿を、いち早く写真という西洋文明の利器を用いて記録したものとして広く知られ、国の重要文化財にも指定されています。撮影された時期は明治4 年(1871)3 月。この写真帖(アルバム)には64 枚の写真が収録され、また撮影地点を理解するため江戸城の内郭・外郭の略図が二枚備わっています。

 「旧江戸城写真帖」を語る時、欠かすことのできない3人がいます。まず撮影を企画した蜷川式胤(にながわのりたね)(1835~82)。蜷川は、京都の東寺の経営に携わる家に生まれ、幼少期より古美術に強い関心を持っていました。長じて新政府の役人として、博物館の創設や文化財保護に力を尽くしました。次に撮影者である横山松三郎(1838~84)。松三郎は、幕末に開港された箱館で成長し、そこで外国使節がもたらした洋画や写真に接し、その迫真性に驚嘆。特に写真術の習得を志し、幕末に上海にまで渡り、また帰国して後は横浜の下岡蓮杖について学びました。そして、もう一人忘れてはならない人物が、絵師・高橋由一(1828 ~ 94)。由一は下野国佐野藩の武士の家に生まれましたが、元来絵を描くことが好きで、伝手(つて)を頼って幕府開成所画学局に入り、本格的な訓練を重ねました。由一が目指した絵画は、洋画(油彩画)でした。由一もまた西洋からもたらされた油彩画の写実性に魅了されたのでした。

 「旧江戸城写真帖」は、蜷川の指揮の下、松三郎が撮影した写真に由一が着色したものです。用いた絵具は水彩絵具ですが、由一が目指した写実の精神が発揮されています。蜷川、松三郎、由一、いずれが欠けてもこの写真帖は成立しませんでした。

 さて蜷川は、どうして明治4 年の江戸城を記録として残そうとしたのでしょうか。蜷川は写真帖にその意図を次のように書き添えています。「天下ノ勢、昔日ト相反シ、城・櫓・塹溝ハ守攻ノ利易ニ関セサル者ノ如ク相成、追々御取繕モ無益ニ属シ候様有之、因テ破壊ニ不相至内、写真ニテ其形況ヲ留置度」。つまり、戊辰戦争を経て日本が新政府によって統一された今、城郭が持っていた軍事拠点としての役割は終わり、それを維持・修繕する必要もなくなった。すると当然それらの建造物は撤去されることになり、その前に写真で記録したいとするものでした。

 蜷川は続けて次のように言います。「是ハ後世ニ至リ亦博覧ノ一種ニモ相成、制度ノ沿革時勢ノ流移モ随テ可被相認儀ニ付」と。既に軍事的意義を失った城郭であるが、これを記録することは後世のために歴史の証人となるだろうと。蜷川にとって、城郭は文明開化の世で失われていくであろう多くの古いものと同列でした。そしてそのことを惜しみました。そのため、できる限り正確に伝えることにこだわり抜いたのでした。

 この写真帖は本丸跡から始まって、天守跡、二の丸、三の丸、西の丸、紅葉山といった城内、そして内郭・外郭の諸門(見附)を丹念にたどり、64 枚という制約の中で城郭の構造を理解することのできる構成となっています。中でも最も数が多いのが本丸跡で、天守跡を含めると30 枚に達します。数が多いだけでなく撮影方法にも工夫を凝らしています。本丸台所三重櫓跡付近を定点として、4 周360 度がつながるように撮影したのでした。

 しかし、当時の江戸城は、明暦の大火によって失われた天守閣は当然として、文久3 年(1863)と慶応3 年(1867)の火災によって焼失した本丸と二の丸はその後再建されず、主要な城内の建物は西の丸(現在の皇居)を残すのみだったのです。

 では、なぜ蜷川は建物の痕跡すらない場所をこれほど執拗に記録したのでしょうか。このことについては様々に解釈されています。焼失したとはいえ本丸跡こそ260 年の長きにわたって日本を統治した徳川幕府の中心であったから。また、その幕府に代わった新政府の許可の下に行われた撮影なので、徳川の治世の終わりを明示する必要があったから。などなどです。これらの解釈は的外れではないと思います。しかし明治4 年の江戸城を考える時、忘れてはならないことは既に天皇が住まいした皇居(当時は皇城と呼びました。)であったということです。

 この写真帖につけられた名称が「旧江戸城写真帖」であるがゆえに、現代の私たちは徳川幕府の居城を記録したと思いがちですが、徳川将軍という主に代わって明治天皇が新たな城主であったという事実をおいてみると、この写真帖に新たな解釈が加わるかもしれません。