このページの本文へ移動

ホーム > 皇居散策コース > 大手門から中雀門(大名登城路)

文化財めぐりコース

皇居散策コース

1 大手門から中雀門(大名登城路)

 大名などの登城は、大手門と内桜田門(桔梗門)と定められていました。多数の従者を伴った大名もこの門の前で人数を限られて登城したため、多くの家臣は現在の皇居外苑周辺で待機をしなければなりませんでした。正月など一斉登城の時には、彼らを目当てに営業する商人たちが集まって賑わったといいます。

① 大手門

写真

現在の大手門

 江戸城の城門は、「枡形門(ますがたもん)」といって石垣を四角く巡らして直進できない通路を設け、城内側には渡櫓門(わたりやぐらもん)といって長大な武器庫である建物を載せています。大手門は、登城の正門で、正面に高麗門、くぐって右側に渡櫓門(わたりやぐらもん)の二つの門で構成されていました。その護衛は、10万石以上の譜代大名2人が担当となり、鉄砲などで装備していたといいます。大手門は、明暦の大火後の万治2 年(1659)に再建されたもので、高麗門がその遺構を(しの)ばせています。その後の震災、戦災で焼失した渡櫓門(わたりやぐらもん)は昭和41 年に東御苑開園に伴い再建されました。門内に展示されている(しゃちほこ)は、焼失した旧大手門渡櫓のもので、頭部に「明暦三丁酉」と記されています。

② 大手三の門

 下乗門ともいい、かつては門の前に堀があって三の丸と二の丸を分けていました。古写真の右端の建物は同心番所で、現在は門内に移設されています。江戸時代は、御三家以外の大名はここで駕籠を降りなければならなかったため、「下乗」の高札が立てられていました。家臣たちはここで待っている間、他家の家臣と情報交換をしていたため、「下馬評」という言葉が生まれたといわれます。

写真

現在の大手三の門

写真

明治4年(1871)の大手三の門
※重要文化財 旧江戸城写真帖「本丸下乗門図」 東京国立博物館蔵

③ 中之門

 大手三の門から中之門まで続く広い通路は、本丸へ向かう正面だったため、中雀門と一体となって一つの大きな虎口(こぐち)を作り、百人番所や大番所とともに本丸護衛として重要な役割を果たしていました。石垣の上に渡櫓(わたりやぐら)がのり、御弓持御持筒頭与力同心(おゆみもちおもちづつがしらよりきどうしん)が警備にあたり、その先の大番所は書院番頭の詰所となっていました。

 また、この区間の石垣は、大名を威圧するのに十分な巨石が使われていました。この石垣は、明暦の大火(1657)後に熊本藩細川家が瀬戸内海沿岸や紀伊半島から運んだ花崗岩(かこうがん)を用い、元禄16 年(1703)の大地震後には鳥取藩池田家が修復したことが宮内庁と千代田区教育委員会が行った発掘調査によって分かりました。

写真

現在の中之門

写真

明治4年(1871)の百人番所
※重要文化財 旧江戸城写真帖 「本丸寺沢二重櫓図」東京国立博物館蔵

④ 中雀門

 御書院門とも呼ばれ、この門を出ると本丸御殿玄関に出ます。かつては、古写真のように二重櫓(にじゅうやぐら)多聞櫓(たもんやぐら)に取り囲まれた厳重な守衛を設けていました。しかし、文久3年(1863)の火災で類焼し、現在は表面が焼けた石垣だけが残っています。

写真

現在の中雀門(今は石垣のみが残ります。)

写真

明治4年(1871)の中雀門周辺
※重要文化財 旧江戸城写真帖「本丸書院二重櫓及重箱櫓図」東京国立博物館蔵

皇居東御苑の公開について

公開日 :
通年
(月曜・金曜(天皇誕生日以外の祝日を除く。月曜が祝日の場合は火曜が休園)・年末年始(12月28日~1月3日)・行事ややむを得ない理由のため支障のある日を除く)
公開時間 :
3月1日~4月14日・9月1日~10月末日 9:00~16:30(入園は16:00まで)
4月15日~8月末日・11月1日~2月末日 9:00~16:00(入園は15:30まで)
料金 :
無料

*皇居東御苑内の写真は、宮内庁の許可を得て撮影しています。